徳島の地域史料『阿波志』(文化12年(1815年)に編纂)にはこのようにあります。
潮見寺 亦北濱西山の麓に在り興正寺に隷す初め大瓶浦に在り天正中沒て海と爲る因てsの南岸に移す寛永中此に移す |
これによると、はじめ大瓶浦にあった潮見寺は、天正年間(1573〜1592年)に海に沈み、その後、現在の徳島市福島付近に移ったようです。
寺が海に沈むなどというのはにわかに信じがたいことです。
しかし、天正13年には巨大地震によって津波が起こっています。
この津波は、日本海側の若狭湾と太平洋側の伊勢湾の両方に大きな被害をもたらしました。
寺もこの時に徳島付近で起こった津波によって沈んだ可能性があります。
徳島市福島にある四所神社も同じように海に沈んだ後、福島に移ってきたという言い伝え(1-2-3)があります。言い伝えでは四所神社は昔、お亀磯にあったということですが、『阿波志』には御甕洲にあったと書いてあります。
四所祠 sに在り其~四、曰く武甕槌命、齋主命、天津兒屋根命、姫太~、舊御甕洲に在り文祿中蕩盡し海と爲る舟人載せて以て此に至り遂に之を祀る時に祀職辻好勝朝鮮に從軍すと云ふ |
御甕洲の「甕」は「かめ」と読みます。さらにこの「甕」という字は、「瓶」の旧字体にあたります。「大瓶浦」の「瓶」は「びん」ではなく「かめ」と読まれていたのではないでしょうか。
「大瓶浦」に「御甕洲」に「お亀磯」。表記に違いはありますが、どれにも出てくる「おかめ」という発音。
もしかしたら潮見寺が元あった大瓶浦と、四所神社があったという御甕洲(お亀磯)は同じ場所であったのかもしれません。沈んだと記述されている年が数年違いますが、沈んだ後共に福島に移されたところを見ても、その可能性は高いでしょう。
ちなみにこのお亀磯というのは、いまの津田町の5Kmほど沖合にあったそうです。
(つづく)
※大瓶浦の沈没について、また徳島市福島付近にあるといわれている旧潮見寺跡石碑の場所について詳しくご存じの方いらっしゃいましたら教えてください。
※下の写真はクリックすると拡大します
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昭和36年の本堂 |
昭和50年の本堂 |
昭和50年の本堂 |
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改築のため取り壊し
(昭和50年) |
起工式での法要 |
工事途中 |
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昭和51年工事終了 |
揮毫 河野穂洲
篆刻 花谷次郎
寄進 瀬戸内佛具店 |
現在の潮見寺 |